*自己防衛をする女性たち
女性は、自分を守ることについて、男性には想像もつかないような不断の努力、そして用心をしいられている。桂さんの「女ひとり」という作品は、たいへん巧みにその心理と現実とを私たちに伝え、訴えた。
この作品は、平成十年五月締切の通信座会によせられ、八月号の巻頭をとった。「ストーカー」という言葉のせいか、男の狂恋は、近ごろ現われた許し難い流行現象のごとくになっている。しかし、恋に狂うことは、男性、女性を限らず昔からあった。したがって、ベランダに黒いゴルフバッグという、小道具こそは現代的だが、女性の狂気にも近い自己防衛というこの主題は、永遠の真実として定着し得たのである。しかし永遠の真実にこだわり過ぎると、その作品は、どこにでもあるような話になってしまう。ところが、この作品では、神が桂さんに賜わったとでもいうしかないみごとな構成によって、傑作が現出したのだ。
*鏡写しの自己発見
桂さんは、この作品をつくる直前、夫の転勤にともなって、福島市から川崎市へ転居している。その体験が、この作品には色濃く反映している。
一〇トントラックから数え切れない荷物という表現には、おそらく引っ越すにあたって、人間が、あるいは人間の家族がかかえている荷物の多さに、嘆息したであろう感慨が読み取れる。
隣、近所へ洗剤を持って挨拶に伺うというのも体験そのままに違いない。そして引っ越した先で、夫が会社へ出たあと、親しい人が一人もいない集合住宅での一日。ドアのベルが鳴っても、不安が心をよぎる。女が一人で住むときは、おまじないのように男物のゴルフバックを置くという話を思い出し、それが妙に現実的な存在に感じられてくる。
この作品の面白さは、ここからはじまる。自分がたった一人で移住してきたとしたら、という仮の想定が、春昼の夢のように現実味を帯びて感じられてくるのだ。そして、今は出社していて、不在の夫に、言葉を掛けずにはいられなくなる。
そのとき、自己は二つに分裂し、もう一人の自分が見えてくる。その分裂した彼女が、隣の部屋に引っ越してきて、ベランダに黒いゴルフバッグを置くのである。つまり自己幻視だ。
いったい彼女は何者なのだろう。洗濯物も干さず、掃除機もかけず、旦那と一緒に住んでいるふりをしている――そして自分は、確かに夫と住んではいるが、夫がいるということはほんとうなのだろうか。会社にいった夫は、いま現在不在であることが確かなのだ。
隣の女に対する関心は、そのまま自分自身に対する関心なのである。この分裂した自己と、幻視上の自己が、明りは点っているが、人の気配が感じられない隣の部屋から、自分の部屋へ視点を戻したとき、にわかに合体する。
ゆうこは、自分自身が明りもついていない、たった一人で住んでいる女であることに気づく。そして、いるはずもない夫につぶやくのだ。
「ねえ、あなた。変わった人もいるものね」
このみごとな結末は、まことに「短説」という文学のスタイルにかなったものである。コントのようにあからさまな終わりでもなく、ショートショートのようにすっきりとくすぐったいようなエンディングでもなく、日常の中で精神にとりついた恐怖が、他人のものではなくて、一瞬に自分の内側のモノとして自覚してしまう結び。
これが自己認識だ。
隣、それは社会を意味する。ゆうこは、自分を取り囲んでいる社会とは何なのか、を考えはじめたのである。そしてそれが何かを理解し得たとき、それは自分自身であることが見えたのである。
社会とは私だ。彼女とは私だ。
そしてそれは読者である私自身であることを、読者の私が理解して、その恐怖におののくのである。
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