Ashihara Shuji
芦原修二の短説逍遥
Textual Criticism

『短説逍遥』 (26/27)/芦原修二

石川正子「」論

*事柄を描く、物語る……

 現代文学の代表とされる小説では、「説明」は禁忌であゐ。なぜ嫌われるのか。それを理解するには、「説明」から離れた傑作をひとつ鑑賞してみるに如くはない。
 平成十二年九月号に掲載された石川正子さんの作品は、そういう作品のひとつである。まだ整理しきれていない部分もあるが、そういう点も含めて、精読してみよう。
“「あ、傘!」
 ドアを出ようとした輝夫は言った。”
 で、この作品は始まる。この二行の含意の大きさに、私達はまず注目しなければならない。読みに熟練していないと、こういうところを人は簡単に読み飛ばしてしまう。読み飛ばすけれど、たいがいの人は、無意識裡に感じ取っている。ここでは無意識にではなく、明解に、この二行の行間、文字裏にひそむ意味を指摘して置こう。
 “「あ、傘!」”という男はどんな立場にあるのか。雨が降っているからではない。雨が降ってもいないのに、傘を持って帰ろうというのは、そこが、自分の家でないことを示している。あやしい一夜を過ごしたのだ。説明なしに、事柄を描くと、このように意味が深まる。これに「女の家に泊まった輝夫は」などと説明すれぱ、文字づらはそうでなくとも、ダブリであり、邪魔だ。

*文学的なものの脆弱さ

 前項で述べたことを要約するなら、それは“「あ、傘!」”という会話で始まったことの効果、といえるだろう。これはつまり、「小説は、会話あるいは動作から書き始めるとよろしい」という手法に重なっている。
 その方法論を語るとき私は常に“文章は短く。会話も短くする”と注意をうながしている。会話が長くなると、相手には「お説教」に聞こえてくる。それは決して自然な会話ではない。
 それに対して“「あ、傘!」”は、きわめて自然な発話であって、私たちは日常こんなふうに喋っている。ところが、こんな場合もつぎのように表現する作家がいる。
“「あ、いけない。傘を忘れてしまった。たしか、夕べ君に渡したはずだが……」”
 作者はこの会話の不自然さに気付かなければならない。夕べ、輝夫が美佳に傘を手渡してあるのなら、「あ、傘!」だけで、美佳は、昨夜から今朝までの傘に関するいきさつを了解する。二人の間に「君に手渡した」などということは言う必要がないはずだ。必要だと思っているのは、作者自身であって登場人物ではない。登場人物が、どうして読者に理解など求めようか。分かってほしいと思っているのは作者で、その気持が不用意に登場人物たちの中に入り込んで喋らせてしまうのだ。こういう表現がされていると、登場人物は、作者の思惑どおりに動いていることになる。つまり作者の傀儡になる。そういう作品は成功しているとはいえない。読者からは「作者のひとりよがり」と批評されるだろう。
 石川さんの作品が、成功したのは、書き出しの会話の短さにあったことを、右のような事情を踏まえた上で理解し、忘れてはならない。
 さて、前項で「まだ整理しきれていない部分がある」と述べたのはどこか。あまりにも完全にしてしまうと、人間を示すのに骨格標本を提示したようになる。川端康成の作品に、わたしは時折そうしたものを感じた。これはいわば、機械における遊びの必要性ということだ。そこにはオイルが入っている。そうしたものが文学作品にもなければならない。だから石川さんの「傘」は、前号で提示したかたちでよいとした。しかして、問題になるのは次ぎのような所である。
“昨夜の激しい雨音が美佳の心にドラムのように響き、いまなお鳴り響いてやまない”
 一般には、こうした表現こそが文学だと信じられていて、ときには賞賛する人もいる。しかしそれは誤りだ。こういう「文学的表現」は、散文を脆弱にする。右の引用のほかにも「昨夜の残り香を嘆ぐように美佳はベッドに横たわった」がある。
 少なくとも前者は削った方が良かっただろう。どうも「……のように」とくる文章が入った所は、作者が情緒的に酔ってしまった場合が多い。こうしたものは、大概削った方がよろしいのである。
 なぜこのような文学的表現が、作品を脆弱にしてしまうのか。私はまだ結論に至っていない。が、いずれはわかるだろう。そのためにも、今は考えつづけなければならない。


初出:「短説」平成12年(2000)10月号〜11月号



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