Ashihara Shuji
芦原修二の短説逍遥
Textual Criticism

『短説逍遥』 (50/51)/芦原修二

藤森深紅「サンルーム」論

*夫婦、その全体像

 私は、一組の夫婦の新婚生活時代から中年時代までの全体像を、かくまでみごとに表現した小説をそうは知らない。思い出せるのは、モーパッサンの『女の一生』ぐらいである。あの長大な小説に釣り合うばかりの重さを持ってこの短説は、私の心を打つ。
 星空を見ながら感じるあの性の衝動は、一体、生き物としての人間のいかなる本質に所以するのだろうか。また需雨の中で高まる性の欲望は……。
 そうした男の欲望に交響して、その妻に「この家を選んで良かった」と言わせる心埋の妙、その面白さ。
 若い夫婦のじつに健康なエロチシズム。その性の喜びが、読むものの心と体にいきいきと伝わり、呼応させないではおかない。こういう面白い「短説」が生まれてきたのだ。このことを知って、私は、この文学運動を、飽きずに、懲りずに、愚か者のようにひたすら継続してきたことを、つくづく幸せに思う。
 夫婦。その関係はじつに妙なものだ。時には、あまりにも軽くて、つまらない何の値打もないものにさえ感じさせる。
 しかし、この世に生まれ合わせて、心と肉体を寄り添わせ、人生のかけがえのない命の時をともに過ごす。そのことを考えると、その持つ重さに圧倒される。その重さを作者は実にかるがると掬いとって見せてくれた。

*夫、妻、その思い

 俳句をつくる人たちがよく使う言葉に「いただく」というのがある。傑作と賞賛されるような句が、作者の努力から生まれるというよりは、あたかも神様からいただいたかのように、ほっこりと誕生することをいう。
 藤森さんにとっての「サンルーム」は、ちょうどそんなふうに生まれてきたのではなかったか。読者の一人として読んでいても、ここには傑作をつくろうというような、変な意気込みは感じられない。それでいて、じつに見事な部分と部分からこの作品は成り立っている。
 物語の発端(作品の発端ではない)は、(雨の日でも洗濯物干せるわね)という、妻の心の中の独り言から始まる。そして、その家に住むことになった夫妻の、たぶん引っ越しなどの厄介事が一切済んでほっとした夜のことだと思うが、「おい、来てみろよ。星がすごいぞ」という夫の誘いに引き繋がれていく。この部分がすでにして、この作品を傑作たらしめている。
 女性の実利主義、男性のロマンティシズムといえば、図式的な分類ではあるが、それを具体的な事柄で表現しはじめたときから、小説ははじまる。短説もまた同じである。
 下手な物語作家は、この事柄で物語るという大事を忘れて、「現実的な妻と、夢ばかり見ている少年のような夫との新婚生活がはじまった」などと説明する。そして、それで、もう十分に書き込んだような気分になっている。しかし、このような文章は、読者にとって何も書かれていないと同じだ。このことを、短説の作者たちには覚ってほしいと、私は思う。
 そこを理解するには、右の「 」内に書いたような説明文と、先に引用したところの、物干し場をめぐる妻と夫具体的な行動や思いというものを比較してみるのがよい。
 どちらが、よりはっきりと人物がみえてくるか。また、登場人物たちの過去がみえてくるか。新婚の夫婦だなどと書いていないのに、藤森さんの作品からは、この夫婦の現在が、どういう過去からつながってきているのかが明白に読み取れるのだ。
 作品の発端へ戻ろう。
「ふとん干す手間がはぶけるだろう」
 この夫のセリフのみごとさ。
 夫は、男性としてのロマンティシズムを、妻の現実主義にあわせて実現する方法を、すでに会得したのである。子育てや家事で、あまりにも多忙だとこぼしているだろう妻。その妻の家事を軽減してやろうという提言の中に、じつは、妻や子供にわずらわされずに、パソコンゲームをしたいという、いまだに少年のような気持ち――欲望を実現する手立てを学習してきたことを表現している。つまり夫と妻と子供たちの過去、その全体が、たったこの一行のセリフの中に表現しつくされているのだ。まったくもって、夫婦というものは、不思議だとつくづく思う。そして、ここに書かれた夫と妻のありように、読者は、人間に対するいとおしささえ感じはじめる。
 そして結末の見事さ。
 ふとんの回りに散らばったインターネット使用料の請求書。その白い紙は、あたかも夫の孤独な性の落とし紙の如く夫婦の現在を物語る。


初出:「短説」平成15年(2003)9月号〜10月号



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