短説提唱(番外2)
シミュレーションとは何か。岩波の『広辞苑囲は「物理的・生態的・社会的等のシステムの挙動を、これとほぼ同じ法則に支配される他のシステムまたはコンピューターの挙動にまって、模擬すること」と説明している。
つまり「ここにAがあって、それと同じような動きをするBよって模擬させ、それがどう動いて行<か」を知ろうとするのがシミュレーションだというのである。少年達が小説を書くのは、「この現実の人生を、あたかも現実の人生であるかのように書かれている小説というシステムによって、どうなってしまうのかを、あらかじめ知ろう」とする熟い願望がなさせたのではなかったか。
しかし、習熟しなければ、決してうまくゲーム機(=コンピューター)を動かせないように、小説というシステムもそう簡単には動かない。
かつて若者たちは、自分の人生に似たことを描かれた小説を読むことによって、このシミュレーションをしていた。漱石の『心』などは、地方から選ばれて一高−東大へと進んできた青年達の、共通して持っていた「故郷の家の没落−その苦悩」といったものを、あたかもシミュレーションするように、そこに読むことができる内容であった。当時、これが小説として成り立ちえたのは、当時の小説の読者が、つまり地方から選ばれて一高−東大へと進んできた人たちが主だったからである。彼等は同じような状況と苦悩を持っていたから、『心』はずいぶんと役立ったに違いない。
しかし、今の少年達に、これがどうして役立つだろう。自分達の人生そっくりの小説など、どこにもないのだ。しかたがないから、少年達は自分で自分そっ<りな少年を登場させ小説を書こうと企てる。しかし、小説は易しそうでむずかしい。易しく見えるのは、毎日自分達が使っている同じ言葉で書かれているからだ。そのためたやすそうに見える。けれど、本当はむずかしい。誰でも歩いたり走ったりしている。しかしオリンピックに出られるわけではない。
才能が求められるのだ。
だが、人間の苦悩は、才能ある人にだけ存在するのではない。問題を起こした少年達が解決しなければならなかった苦悩は、才能ある人のそれとはまるで違うだろう。
だから、もはや、“才能ある人”によって書かれた小説などではシミュレーションすることができない問題を、一人ひとりがかかえこんで悩んでいるのである。
それはたぶん「多様化の時代」といった趨勢ともかかわるだろう。一人ひとりが違う問題をかかえながら、その人生を生きはじめている。
少年達の一人ひとりに聞いてみるがよい。彼等はきっと答えるだろう。
「自分が、皆と同じなら、どうして悩むだろう。皆と同じに生きればいい。それはきっと楽に違いない。でも、ぼくが抱え込んだ悩みは、そうじゃない。あなたが聞こうとしたって、教えられない種類のものなんだ」
したがって彼等は、誰のためにでもなく、自分のために、自分に似た主人公を仕立てて、自分で小説を書かねばならないのである。それが現代なのに、それが困難なのだ。
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