短説提唱(番外1)
下級生を金属バットでなぐり、母を撲殺して自転車で逃げていた少年が秋田県で逮捕された。少年が家に残したノートには「闇の狩人」という小説風の作品が書かれていたという。また逃亡中に書き続けた日記もあるという。こうした新聞記事を読んで、私は、少年が心理的に追い込まれていった苦境に対し、深いsympathyを感じながら、「君たちはなぜ小説をかくのか」と、自問しつづけた。
そしてこれは、上記の設問に対する私の、平成十二年七月十日現在の回答である。
少年犯罪者が小説を試みているのは、今回に限らない。神戸の事件でもそうであった。多くの少年達が、事件を引き起こす前に、小説を試みているのだ。少年達は何を期待して小説を書いたのだろう。
私は、少年達が、陥った精神的な危機にあって、自分がこれからどうなってしまうのかを、懸命にシミュレーション(simulation)していたのだ、と思い至った。しかして、彼等の直感は正しかったものの、小説を扱う技術と知識を持たなかったために、そのことごとくが失敗したのだと結論した。もし成功していたら、現実に犯罪を起すようなことは避けられたに違いない。
シミュレーションといえば、いまあざやかに思い出すことがある。文芸評論家の小川和佑氏が私どもの「月刊短説」(昭和六十二年十月号)に匿名での試みを寄稿され、さらにその翌年の四月号には城英の筆名で「澄江堂
−虹/抒情詩」の二作を発表されていることである。この時、私どもは、一般会員の作品とまったく同じ座会にかけて、論じるという生意気というか、身の程知らずというか、おどろくべき扱いをしていた。それにもかかわらず、氏は、その年の七月に刊行された年鑑「青いうたげ」に本名での発表を許されている。これらの作品を寄せられたときに、氏は私信で「シミュレーション短説」という言葉を使われていた。
そのとき私は、なぜこの作品をシミュレーションとされるのか、まったく理解できずにいて、以来今日まで十二年間余も考え続けてきた。
今に至っても私は、氏の真意を誤解したままなのかも知れないが、私なりに見えてきたような気がしている。氏は澄江堂主人すなわち芥川龍之介のある一日を短説にすることによって、その内実から、とりまく環境までを、わが事として体験されようとされたに違いない。その求めたものを理解せずに、私達は作品を論じあっていたように思う。その愚かさをお許し願いたい。
いま少年達が、人生の危機に当面し、ひそかに小説を試みていることを知るに至って、私の内部で、これらのことが、激しく反応して熱を生じ、光を放って周りを照らしはじめた。
小説が、現代文学の代表たりえているのは、小川和佑氏が試みられて一つの達成を得、また一方で少年達が直感しながらも失敗した、この「認識の方法としての文学」によるのではあるまいか。で、あるとしたら、小説のよりよい方法こそが、現代人に不可欠な鍵であるに違いないのだ。
短説が、散文詩であるよりは、小説であろうとしているのも、じつにかかってここに本質があるように思う。
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