利根川の民謡
〈下総は唄の国〉



利根川に岐阜の民謡「おばば節」


伝えたのは加納久右衛門が寛文のころ


第3章 加納久右衛門と利根川

 加納久右衛門が関東地方に来て、手賀沼落しや利根川下流堤防のかさ上げ工事をしたのは寛文5年(1665)年11月からだったと記録されています(「加納両新田/口達覚書」利根町史第2巻所収)。この「口達覚書」には記されておりませんが、そこには、当時の幕府が直面していた困難がありました。

 関東の地図をみると、小貝川の河口付近から利根川本流にほぼ平行するかたちで「新利根川」が東流し、霞ヶ浦にそそいでいるのがわかります。この川は寛文1年(1661)に、利根本流にすべく立案され、寛文2年から掘り割られたのですが、完成してわずか3年(あるいは1年半)、その役目をはたしただけで、急遽その使命を廃され、もとの流れに返されたという。いうなれば、「壮大なる失敗工事の遺跡」でもありました。失敗の原因を『利根川図志』(安政2年自序)は「太(はなはだ)直にして、水渇き易く、舟行に便ならざるを以(もっ)て」廃されたと記しています。つまり莫大な財貨を費消して、利根川本流にすべく掘り割られたのに、水が涸れやすく舟運に差しつかえが生じてしまったため、即座に、廃止されるという結果を生んだのです。この大工事の間すておかれていた利根川の堤防は荒廃していたものと考えられます。その荒れた堤防の修復工事を自分金で引き受けようという者があらわれ、岐阜から関東へ下ってまいります。この人が加納久右衛門であったのです。

 幕府にとっては、まことにありがたい申し出であったことでしょう。この加納久右衛門は美濃の加納山に住んで、織田信長に仕えたという加納久左衛門の弟でした。
 この久右衛門が大量の金子をもちながら、たった一人で関東に下ってきたなどとは考えられません。護衛する部下が大勢いたでしょう。また、彼等は加納久右衛門を支える技術集団であったとも考えられます。「おばば節」は、この集団によって関東に伝えられ、今日へうたいつがれたものと考えられます。

 昭和60年に茨城県が実施した民謡調査によれば、この「おばば節」が残存すると記録されたのは、北相馬郡利根町と藤代町(現取手市)で、その後の利根地固め唄保存会の調査で加えられたのが千葉県の手賀沼周辺であります。この「おばば節」残存地域と、加納久右衛門が関東移住後すぐさま開始した堤防かさ上げ工事の開始地域とが重なっています。ここからも、「おばば節」は加納久右衛門によって、岐阜から関東に伝えられた民謡であると認められるのです。

 加納久右衛門は、この功績によって幕府から恩賞として野地を賜り、加納新田と下加納新田の2村を自費で立ち上げています。また江戸時代には代々にわたって、幕府に採用され、利根川流域の河川工事を担当することになりました。その役職名は時代によって変わり「下利根川通り見廻り役」「勘定奉行役・急水見廻り役」「大川通り御普請役」などがあり、これらの役職を経て、延享3年(1746)には「四川用水方御普請役」を拝命して、以来江戸に屋敷を構えて幕府に仕え、当主は江戸詰め、隠居した後は、加納新田にあった屋敷に住むようになりました。なおここにいう「四川」とは、「江戸川」「鬼怒川」「小貝川」「下利根川」のことであります。

(この項おわり)
芦原修二(2005年)


利根川の民謡〈下総は唄の国〉:HOME 

制作・監修=利根地固め唄保存会理事・芦原修二

利根川の民謡
Copyright © 2005(2018) Ashihara Shuji. All rights reserved.
短説の会