Ashihara Shuji
芦原修二の短説逍遥
Textual Criticism

『短説逍遥』 (44/45)/芦原修二

根本洋江「山釣り」論

*魅力的な人物の造型

 この作品は、平成十四年度八月の通信座会に出され、同年の『短説』十二月号に発表された。座会で一読した私は、その魅力的な人物造型に驚嘆し、迷う事なく天位に選んだ。
 そしてその選評で、「ほんとうにこれはいい味をした短説です。こういう感性の作品が短説世界から出てきたことをうれしく思います。陣馬、高尾、藤野といった具体的な地名も、釣り好きなら納得できる気配りです。作者が、藤野の山の少年を一方的に断罪することなく、描写に徹して描いた事で、たいへん魅力的な男の子を造型することができました。みごとというしかありません」と、記している。私の、この作品に対する思いは、それで言い尽くされているともいえるのだが、さらに深く分析したら、もっと深い魅力の発見につながるかも知れない。
 そう思って改めて読み直してみる。
 幸一はいままで父親と釣りにいっていた。それが中学生になって、いまは一人で行くようになった。「気をつけて行ってらっしゃい」と母親は送りだす。この母親の心の中の一抹の不安が、じつは読者の興味につながっていく。見事な書き出しだ。

*共犯者としての母親

 物語の機能とは、じつに奇妙なものだと思う。母親が「気をつけていってらっしゃい」と息子を送りだせば、その物語は、母親の願いとは逆な方向へ必ず歩みを始め、息子に不幸がふりかかってくることを予言してしまう。
 もしそうならなかったら、それは物語にならない。そしておそらく読者は、読み終わったあと、退屈な時間を過ごしたことを悔いることになるだろう。この原理が、物語を読むものの暗黙の了解事項だ。だが、これを意識している者は少ない。
 はからずも、この物語では、息子が母親のつくってくれた握り飯をうしない、空腹の迷宮へ迷い込む結果になる。
 この迷宮は奥が深い。息子は二度と母親のもとへ戻ってこれないかも知れない。
「読後評」ですださんが「現れた少年は彼に釣りをさせないし、道案内をして藤野駅に送っていったように見えるが、はたしてほんとうに藤野駅に着いたのかは分からない。幸一はこれから山の中でさまよい続けるのかもしれない」とのべているのが示唆的だ。
 そして土屋さんが、ダリの「あらゆるものが白日のもとにさらけ出されたように、物理的実体を持って描かれていなければならない」を引用して、「だからこそ現実の裏にひそむ存在のあやうさが見えてくる」と記し、「そして確かに幸一の前に少年が存在する。この存在感はラストの一行でイクラの粒々が指についているという認識によってさらに決定的な実在を感じさせる」と書かせた上で、「実はこの世に真に実在せるものなど存在しない。その本質は明らかでない。故に山の中でのオニギリ紛失と少年の出現は現実味をもった幻として、それこそ白日のもとに描き出される。すべては夢かもしれない」と言い及ぶ。これは、間違いなく迷宮のことなのである。この迷宮世界の酩酊感こそ、物語がもたらしてくれる読者への最大のサービスだ。
 幸一は母親の願いむなしく、年下の少年によって、戻ってこれない迷宮に誘い込まれてしまったのである。
 と、ここまで読んできて、読者は気付くだろう。母親こそ、幸一を迷宮に送りだした張本人だ、と。そしてお菓子を呉れて、幸一を誘い込んだ少年は母親の共犯者なのだと。
 こうして迷い込んでしまった迷宮を幸一は不幸と感じるだろうか。いや、読者である一人の少年をここに仮定し、その少年が、この物語の中の幸一をどう感じるのか想像をはたらかして考えてみることにしよう。もし読者が、少年のように健康な好奇心と、健全な精神をいまなお持っているなら、ここに仮定した一人の読者である少年と同じように、お菓子を呉れた少年の道案内で、幸一とともに、陣馬山の奥にあるらしい迷宮へ、母親を捨ててでも入っていこうとするに違いない。
 そこには、甘美な大人の世界があり、青春が用意されていることが直感できるからである。母親を振り捨て、その迷宮へ入っていこうとしなければ、それは断じて男の子とはいえないのだ。
 そしていつの時代でも、母親は知ってか知らずか、息子を迷宮の入り口へ連れ出す存在なのだ。


初出:「短説」平成15年(2003)1月号〜2月号



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