Ashihara Shuji
芦原修二の短説逍遥
Textual Criticism

『短説逍遥』 (2/3)/芦原修二

金子敏「柵を越えて」論

*伏線

 読者を魅きこむ力は、伏線にある。その見本として、この作品を私は何度語ってきたことだろう。
 伏線は第一行から仕掛けられる。「この先いつ会えるかわからなくなる」がそれである。なぜ会えなくなるのか。読者は謎を掛けられる。その謎が第二行目でさらに深められる。「柵を越えた」という。「柵」とは何か。「つかまって新聞に出る」だって? いったいなぜだ。オヤっ? 「ずぼんの中がごそごそ」? これは何ンでだ。読者は次々に生じる疑問に引き寄せられて、読む速度を早めざるを得ない。
 こういう伏線が三重にも四重にも張られている。こういうことは、そう簡単に出来るものではない。金子さんの力量のなせるわざである。だが、素人にも一つだけ可能な方法がある。それは文章を短くして言いつくさないということだ。「中学校を卒業するので、この先いつあえるかわからない」などと、いい終わしてしまうことを避ければいいのである。書き始めを会話にしたり、行為からはじめると成功する例が多いのも、理由はここにある。

*性の隠楡

 伏線を敷くには、言い尽くさないことが大切だと述べた。「このことは後で述べよう」としまって置くのである。
 ところが生来忘れっぽい私は、書き進めているうちに、しまいなくしてしまうことがたびたびあった。むかし、原稿用紙を使っていたころは、そこで欄外にメモをしておくようにした。たとえば金子さんの作品でいえば“ずぼんの中がごそごそする”と書いたところの欄外に“後で「ずぼんの下に海水パンツをはきこんだ」と入れること”などと書いておく。
 最近、太宰治の「人間失格」の原稿が話題になったが、彼も同じようなことをやっている。それが後に、読者にとって忘れられない名文句になった。
 ワープロだとこういうことができない。削除してから、ちょっと待て、あっちの方がよかったかナと思って、再現しようとするのだが、どうしても細部は思い出せない。そういうことがしばしば起きる。だから「待てよ」という気持が動きそうなら、削除ではなく移動しておくのがいい。
 この種の伏線の持つ力は、誰にも解りやすいし、また利用できる。が、「柵を越えて」の魅力は、書かれていないところにもあふれている。
 その一つを見ていこう。先にも上げた「ずぼんの中がごそごそする」であるが、これは、そのまま思春期の少年の肉体の中の異物である性器に直結する。三島由紀夫のたしか『禁色』であったと思うが、動物園で少年が、時をかまわずふくらんでしまうそこを、ズボンのポケットに手を突っ込んで押さえて歩くという場面があった。それを思い出させるのである。つまり、「ずぼんの下にはいた海水パンツ」は少年の性器を隠楡しているというよりは、ほとんど直楡になっている。
 こう考えてくると、プールで泳ぐということは、性行為そのもの、ないしその代替行為ということになる。少年達は、その熱い欲望を、大人達の「セメントのあくを抜く」という勝手な理由から禁圧されてしまうのである。
 少年の時に体験しておきたい、という欲望は、満たされないまま高校生、つまり青年になってゆくしかない。少年達は、水のないプールに裸になって寝転び、潤んだ月を見ながら笑う。達成できると思ったのに、はずされてしまって、女性の写真を見ながらオナニーをしている光景が、ここにはダブッて見える。その滑稽さに少年達は笑うのである。こういう二重構造は作者が意識して出来ることではない。俳人がよくいうように、何者かから恵まれ、頂くのである。無意識に書いてしまうのだ。いうならば神の恩寵である。
 思えば、人生は、計画したように、あるいは希望したように、通過儀礼を達成できることはまずない。達成できないことの方がむしろ多い。それは不幸である。不幸ではあるけれども、その無念さほど人生に厚みをもたらしてくれるものはない。金子さんにこの傑作を恵んだのもまた、その不幸がもたらした人生の厚みであった。


初出:「短説」平成10年(1998)5月号〜6月号



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