Ashihara Shuji
芦原修二の短説逍遥
Textual Criticism

『短説逍遥』 (4/5)/芦原修二

岩谷政子「背後霊」論

*岩谷さんの「背後霊」

(平成十年)三月の東京座会でこの作品は発表された。「これよかったですね」というすださんのの発言を皮切りにみんなが賞めた。いったい何がよいのか。
 この作品は「短説」の(同年)五月号に発表されている。読者の記憶もまだ新しいに違いない。その印象が残っているうちに、述べて置きたいと思う。
「ねえお父さん、犬には見えないものが見えるんでしょう」
 という会話の一行からこの作品は始まる。この書き出しの文章は、ある意味で不完全である。正確に直せば「犬には、人問に見えないものも見えるのでしょう」となるだろう。しかし、もしこのように書き始めていたら、この作品の天位入賞がはたしてあっただろうか。
 これは、書き出しを会話で始めると成功するという例文にもなる。会話はときとして、こういう不完全な姿を持つ。それゆえ、人は無意識に補完するものをも・とめ、物語に魅きこまれる。いい文章というのは、必ずしも完全な文章のことではない例証でもある。

*無意識から引き出す

 先に、文章としては不完全な会話からはじめたことが、この作品を成功させた一つのカギだと述べた。それは、伏線をつくる方法として述べたことと同じである。つまり「言い尽くされていない」から、読者は先へと興味をそそられるのである。
 しかしただ単に「読者が興味をそそられる」というような文章技術など、実はそう大したことじゃない。そういうことだけだったら、そのうち作者自身が白けてうんざりし、書くという情熱が冷めてしまう。
 こういうところは、性の心理とよく似ているように思う。
「言い尽くさない」という出発は、言い尽くせないという発見をともなうべきだ。言い尽くせないものを感じながら、その思いを書き進めていくうちに、人は自分が知っている事実を超えて、自分をとりまいている社会というものの構造が理解できてくるのだ。そういう発見があるからこそ、作者自身が面白くなって、書くことに熱中できるのである。
 読者を喜ばせることだけを考えた作品行為などというものは、どこか疑わしい。その小さな疑いが次第に育っていって、結局は、読者自身も冷めてしまい、読み続けられなくなる。
 岩谷さんの『背後霊』における娘まみは、死んだ母に会えるだろうことを理由に、背後霊の存在という、信じ難いことを信じようとしている。そして、人間には見えないものも、犬には見えるのだと友人から聞いて、犬の目の中をのぞきこむ。対して父親は、「中学生でもまだ子供だな」と、内心で嗤っている。
 しかし、嗤っている信夫自身にも妻に逢いたいという気持がある。だから、つい「何か物音でもしたのだろう」と、大人の理屈をくっつけ、台所へ首を回し、そこを見ないではいられない。
 この作者は女性である。母親である。
 だから、父親である信夫の心理は、作者の推理したものであり、これは本質的にフィクションである。
 が、作者は、「ゆっくり台所へ首を回した」と書きながら、自分自身もまた心のうちで台所をふりかえってみていたのだと、私は碓信する。決してそんなことを信じちゃいない、と、作者は自分自身に言い聞かせながらも、やっぱり見ないではいられないものを自分自身の内側に発見している。この心情こそ、作者にこの作品を書かせた動機である。
 読者もまた、父親信夫の心情にそいながら読み進んでいって、いつの間にか台所を見ている自分に気づくのだ。
 言葉によって人は動かされ、うながされる。同感、共感とは、こういうものに違いない。読み始めた時と、読み終わった時では、読者のいる位相が違っている。作者もまた、書き始めた時と書き終わった段階では、自分が違うところにいることを感じている。
 自分、そして自分を取り囲んでいる世界を、そのとき人はいきいきと感じ取る。認識する。


初出:「短説」平成10年(1998)7月号〜8月号



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