Ashihara Shuji
芦原修二の短説逍遥
Textual Criticism

『短説逍遥』 (6/7)/芦原修二

糸井幸子「三角クジ」論

*「三角クジ」の人間理解

 糸井さんの「三角クジ」は平成九年十二月の藤代木曜座会に出されて天位をとり、「短説」(平成十年)二月号の巻頭に掲載された。また三月二十九日に開かれた短説館開館記念の「こぶし祭り」では、作者自身が朗読をしている。この朗読では、作中に出てくる忍者人形が、実際に会場の切り株の上に置かれて披露された。後方にいた人は忍者人形が置かれていることにすら気付かなかったくらいに小さな人形であった。しかしその存在は、作品誕生の不思議や運命といったものを、深く考えさせるに充分だった。
 暮れの売り出しでもらった三角クジが引き当てたのは「残念賞」の忍者人形。妻は「なんだ」と思うが、夫は妻の目を盗むようにポケットにしまいこむ。その上、風呂で湯に浮かべて遊んでいるらしい。
 あまりにも子供っぽい夫に、妻は呆れはてる。妻は夫の心がわからないのである。それがわかったのは、風呂の湯に浮かんでいた忍者人形を拾い上げたときであったという。

*書かれていない行間の意味

 平成九年十二月の藤代木曜座会にはじめて出された時の作品がいま手元にある。座会を経たあと、決定的に書き改められたのは最後のところで、もとは「八才で亡くなった息子が叱られた時、よく、こんな顔をしておどけていたな……と、ふと、洋子は思い出している。」であった。
 座会では、なぜ亡くなったのか、という質問が多く出され、作者は交通事故だったんです、と語る。これに対し、作者の親しい友人である小巻正子さんが「私は知っているだけに、いまになって、やっと書けるようになったんだなと思いました」と発言している。作者の心の傷の深さが、この親友の言葉からはかり知れる。死んだ息子のことを綴りながらも、なお、つらい思いがあって「交通事故だった」と、明確に書きえなかったのである。事故の細部、とりわけ傷ついた息子の姿を思い出すこ
とは、苦しかったのだと思われる。
 しかし、座会でのみんなの意見が、作者を後押しして、結局、結末部分はこんなふうに書き改められた。
「八歳のとき交通事故で死んだ息子は、叱られると、よくこんな表情をしておどけた。」
 この二つの文章を見比べると、言葉というものは不思議だ、としみじみ思わされる。前者では、思いというものが、洋子自身の胸の内に入り込んでいっているため、彼女の気持に対しては、より直接的に読者が近づける装置として用意される。
 しかし、後者ではどうだろう。日本語の「主語がはっきりしない」という特性もあって、ここで、忍者人形の表情を見ているのは、洋子でもその夫でもなく視線そのものになっている。その結果として、読者もまたその視線をわが眼にかえて忍者人形を見ることになる。これによって、読者は、自ずと、自分の眼が洋子の眼であり、夫の眼であることを無意識のうちに感じ、彼等の気持を読者自身の内側に発見するのである。
 夫は、買い物の帰り、三角クジであてた景品の忍者人形を見た瞬問から、そこに息子を見たにちがいない。だから、かつて息子と一緒に入った風呂に忍者人形を持ち込むのだ。その気持が読者にひしひしと伝わる。これは、思い出を洋子一人に限定しなかった成果ではないだろうか。
 この作品を読んだ土屋進さんは、その「読後評」(平成十年三月号)で、「忍者の手が落ちるというエピソードがスリリングだった」と書いている。これも作者のたくらみを越えた文章力というものである。これは「交通事故」だと明確にしたことで、書かれていない意味が、行間から読者に伝わったことを意味している。
 作者は風呂の中で忍者人形の手を拾うことで息子を思い出す。それは、悲惨な事故によって受けた息子の外傷を、無意識的に思い出しているからに違いない。そして読者もそこに心をゆり動かされるのだ。


初出:「短説」平成10年(1998)9月号〜10月号



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