Ashihara Shuji
芦原修二の短説逍遥
Textual Criticism

『短説逍遥』 (18/19)/芦原修二

有森望「珠子」論

*通信座会から生まれた傑作

 一読「これはいい」と、私は欄外にメモを残した。有森望さんの「珠子」は、平成十年(98)九月末日締切の通信座会に提出されている。当時、有森さんは通信座会の座長として活躍していた。通信座会は、はじめ本誌直属の座会として開かれた。作品を誌上に発表し、点盛には読者が自由に参加できるという形式だった。募集締切から誌上に発表するまで時問がかかるせいもあり、いつか不定期開催になっていた。その頃、茨城から山形へ転居した有森さんは通信座会に作品を出すようになった。その有森さんに、私は座長をお願いした。以来毎月座会が開かれるようになり、優秀な作品がぞくぞくとここに発表されるようになった。そして、有森さん自身も傑作を産みだしていった。「珠子」は、有森さんの作品世界を代表するものである。有森さんは戻ってきた父の遺骨を母の手に触れさせてやった。それをヒントにこの作品は生まれたという。

*一人の男、二人の女

 このように発想の原点は父親の骨と母親との再会にあったのだけれど、そこから生れた発想を練り上げてゆくうち、主人公の情念に作者自身の情念が重なっていった。そして、生れた作品=「珠子」は、作者自身の似姿になって現われてきた。
 ……作者の夫が、現実に死んだというのではない。ではなくて、作者はその数年前に離婚していた。それが事実ではあるが、かつての夫はいま、「死んだも同然」の状態になっていて、結婚していたころの日々が、作者の心によみがえってくるのだ。そして「死んでしまって、骨壷に納まっている」と考えることによって、作者はその過去をいさぎよく清算できると感じている。その無意識の底に沈んでいるような思いが、まぼろしとなって、しかし明確な輸郭をともなって、物語ろうとする彼女の胸裏に現われてくる。つまり自分自身である珠子が現われる。彼女は夫の骨を小さな摺り餌鉢で砕く。思い出を破砕し、消滅させようとしている。かつて有ったものを無かったものに変えようとしている。そういうまぼろしとしての珠子が縁側の光の中に見えるのだ。そして、小さな摺り餌鉢の中の白いものが人骨だとわかると、思わずも作者は叫んでしまう。
「その人って、ヤツのですか」、と。
 この台詞は微妙である。
 ただ単に、親友の夫というのとは、違うのだ。「ヤツ…」という言葉には、かつて、その男の肉体を自分も共有したことがあったという時間と体温の思い出が重なっている。「珠子とは作者自身である」とすれば、それも当然であって、そのことをもちろん珠子も知っている。
 それにしても(わたし結婚してしまいます。あなたはいつもご自分をごまかしてらっしゃるのね)という七年前に珠子が言った科白は謎である。
 どう解釈したらいいのだろう。
 作者にとって離婚した前の夫とは何だったろうか。はじめから愛が不在の結婚だったのではなかろう。気掛かりはあったかも知れない。しかし愛を感じたから結婚したのだ。ではあるが、どこかにあやふやなものがあった。珠子はその時、自分の内に感じたもう一人の自我としての自分であった。その自我が「わたしは結婚してしまいます。止めるなら今のうちよ」と、叫んでいたのだ。しかし、自分は「No」と言わなかった。
 それが、七年前であった。後悔もある。しかし、今となっては、もうどうなるものではない。時問が、なりゆきが、もうその人を死んだも同然にしてしまったのだ。
 離婚した女にとって、元の夫とは何なのだろう。他人なのか。いまでもなお親戚の類いなのか。世問の常識は、他人だとしていて、あの人の骨を、故郷の実家の墓に埋めることを要求する。その悲しみを清算するため、珠子は骨を砕く。その行為を共にしようと呼びかけた時、珠予は作者と同化して、縁側の光の中に在るのだ。


初出:「短説」平成11年(1999)10月号〜11月号



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