Ashihara Shuji
芦原修二の短説逍遥
Textual Criticism

『短説逍遥』 (24/25)/芦原修二

園田やよい子「その女」論

*内奥に潜在する不安

 この作品の原題は「朝方の夢」である。平成十一年正月の上尾座会に提出された。座会の点盛の結果は27点、人位であった。この座会に、私自身は風邪のため欠席している。後日、読ませてもらったのであるが、その面白さに驚いて、私は「天位」に採り、若干のサジェスチョンを申し上げ推敲をしてもらった。その指摘を整理してみる。
「夢」とするのは、なんとしても作品を弱くする。このような場合、フロイトの潜在意識論を持ち出すまでもない。日常あるとも思っていなかった内奥の不安が、無意識層から、ある日、突然噴出してきたものとして、そのまま作者の「思い」として書くのがよいのである。そのためには題名から「夢」をはずすのが良い。題名から「夢」をはずすことで、本文の書きようはおのずと決まってくる。
 今月号では、この作品を仏訳してもらって掲載した。訳者の大井正博氏は、「女の業というのは、外国人には、なじみにくいのでしょうか、何を言いたいのか、疑問を感じたようだ」と私への手紙でのべている。上尾の座会でも「よくわからなかった」という意見が出ていた(「座会要約」)。
 では、どう読むべきか。私の考えを述べてみよう。

*子のない女性が担った不幸

 なぜこのような夢が、作者の睡眠中に訪れたのだろうか。作者自身には子供がいるのだ。だから、切実な自分の間題としてではな。しかし、作者には、子のいない女性の心情を養母の内につぶさに見てきたという経験があった。それが、「子のないことの不安」を他人ごとではなく、長い間、作者の心の底に沈殿してきたのである。
 決して自分自身の問題ではないのだが、自分にもありえたかも知れない不幸として、痛いほど日常で感じてきた。それだから、それは、夢にあらわれてきたのだ。夢であるから、現実ではないのだ、それは、あたかも現実であるかのように作者の胸を深くえぐったのである。
 そして、その夢を、切実な事柄として感じ取れる感覚を作者はっていた。この感覚こそ、人間が物語を読むことのできる資格であり、また人にものを書かせる基本的要件でもある。
 この種の夢を見ても、心に切実に感じられない人は、そういう夢を見ることもなく、小説を読むことに関していえば不適格者だ。おそらくそういう人は小説を読んでも感激をしたことがないだろう。だから小説を書いてみようなどという気持は、とうてい生じはしない。ただ幸いに、そういう人は、それを不幸とも感じない。
 とは、いうものの、そういう本質的な無感動の人間は、めったにいるものではない。が、考える習慣を持たないために、そういう感情を鈍磨させ、毎日を生きているという人はかなり多いのである。
 物語を読むということは、この感情を鋭敏にする。では、この種の感情が鋭敏であゐことは幸せか。……それは、あるいは、大いに不幸なのかも知れない。
 いや、いや、それが問題なのではない。この作品が持つ魅力は、そういう、くらくらするような幸福を失うかも知れないという恐怖、潜在する不安をみごとに表現しえたことにある。
 子供を連れた女は、「出て行って、すぐ出て行って」という叫び声に追われて、玄関を出て行くのだが、無邪気な子供を連れて、彼女の何という幸せそうな後ろ姿だろう。むしろ、不幸なのは、追い出しに成功した女の方である。
 作者は、子供がいる。幸福な女性の側なのだが、不幸な女の側に寄り添うことによって、この作品を作り上げた。それによって作者は、人生を複眼で感得しえた。これこそ書くということのゆるぎない本質なのである。


初出:「短説」平成12年(2000)4月号/6月号



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