Ashihara Shuji
芦原修二の短説逍遥
Textual Criticism

『短説逍遥』 (36/37)/芦原修二

船戸山光「カルガモ」論

*サラリーマンの危機

 船戸山さんの「カルガモ」は、平成十二年六月の藤代木曜座会に提出され、九月号『短説』に掲載された。
 東京丸の内のビルに付属した池でカルガモが子育てをしているのが評判になってもう何年になるだろう。自然がないと考えられてきた都心にカルガモが巣を営む場所があったということ自体が驚きで、人々の心をいやしてくれた。そして、この親子が皇居前の大通りを横切って、お堀へ移動する姿がまことにかわいらしく、あぶなっかしく、それゆえに話題になって、テレビや新聞で大きく報道されるようになった。その写真撮影には、報道カメラマンだけでなく、アマチュアカメラマンもくわわって年中行事化している。
 そんなカルガモの騒ぎにぶつかったサラリーマンの心にふっともちあがった危険な情念。カルガモの愛らしさにダブって孫の幸太を思い出し、ポケットに手を入れると、ピストルがはいっている。孫が入れたおもちゃのはずだが、引き金を引くと、本物の弾が飛び出してしまう。
 この作品を読んでいると、自分もまたピストルを撃ちかねないことを人々は気付かせられる。

*孫への溺愛感情と社会

 大泉逸郎の『孫』がテイ千クエンタテイメントから発売されたのは平成十二年四月のことであった。同年十一月にはオリコン演歌チャート第一位になり、以後連続二十六回首位を獲得、現在のレコード売り上げ高は一八五万枚になる(インターネットのホームページ「大泉逸朗」から/平成十三年十月十六日調べ)という。
 このヒット以来、日本人の孫への溺愛感情は、コントロールを失ったようなところがある。とりわけ祖父の側において…。本来「お婆ちゃん子は三文安い」という言葉があって、孫への溺愛は、社会全体の戒めとしてコントロールされていた部分があった。そのタガがはずれたような日本社会の意識の変化がこの歌からはじまった。
 愛というものは、いつの時代でも、一方で高らかに歌い上げられると同時に、禁圧的な情念が社会に充満していて人を息苦しくさせてきた。
 船戸山さんのこの「カルガモ」という作品も、作者の思惑を超えて、そうした社会状況を反映している。カルガモという一野鳥への日本人の熱狂的な関心もまた社会の「愛情感覚」を抜きには考えられない。「野生動物」を大事にしようという社会の大きなうねりに対する日本人の無条件な順応ぶり。その愛情行為の持つ思わぬ息苦しさは、カラスに対する東京都の対応の中に現れている。カルガモとカラスヘの人間の対応ぶりは、正義などというものが、いかに人間本位の勝手きわまりないものであるかを物語る。
 この作品の中の「孫」と「カルガモ」の関係も同じ地平に立っている。
 山田の目の前をよちよち歩いていくカルガモの雛、その存在は、昨日遊んだ孫の幸太とイコールで結ばれている。愛らしい。そうした感情を放し飼いにして生きていくのは、欲望に自らを一〇〇パーセントゆだねてしまおうと思ったその時のように、自己揶揄的に甘くて官能的だ。そしてこの主人公は、孫とカルガモの雛と両方を手中にした喜びを思って、一瞬のうちに目がくらんでしまうのだ。
 ポケットには、孫の幸太と遊んだ時のおもちゃのピストルが入っている。そのピストルをカルガモにむける。このときサラリーマンは、自分の心を孫の幸太の心に置き換えてしまっている。孫のほしいものがイコール自分がほしいものなのだ。つまり愛の対象との同一化である。
「バアーン」と大きな音がして、カルガモは倒れ、サラリーマンは目の前が真っ暗になる。大勢の記者に取り囲まれテレビカメラに大写しにされる。サラリーマンの日常がこの瞬間こわれたのだ。世間はこの、日本中のみんなが愛したカルガモを撃ち殺したサラリーマンを決して許さないだろう。今朝まで自分の生活を支えてきた会社からも追放されるだろう。そうした思いが、サラリーマンの脳裏をかけまわる。
 しかしこれは現実ではない。一瞬の幻想なのだ。そのことが読者にもわかっている。そして、このサラリーマンはおそらくほっとして、会社への道を歩き出す。文学はここで、一種のシミュレーションをサラリーマンに、いや作者に実行させたのである。
 小説で考えるということは、つまりこういうことなのだど私は思う。


初出:「短説」平成13年(2001)9月号〜10月号



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