Ashihara Shuji
芦原修二の短説逍遥
Textual Criticism

『短説逍遥』 (32/33)/芦原修二

川嶋杏子「立場」論

*川嶋杏子「立場」を読む

 平成十三年三月号の巻頭に掲載した川嶋杏子さんの作品「立場」は、上尾座会が行なった「座連説」の結びとして、すでに新年号に発表されている。それをこんなふうに再度巻頭に収録したのは、独立した作品として、ぜひ新たな気持ちで読んでほしいと思ったからである。この作品は、見るということに関して、実に戦慄的な桃戦を私達に提示してくれている。そして私は、「見る者の存在として
切なさ」をこの作品から認識させらたのでもあった。
 そのことについて、論じないわけにけいかれい、そういう思いがあふれてきてならなかったのである。
「ヴォアイアン」(見る人)というフランス語は、たぶんそのまま、読者にランボーを想起させるに違いない。ランボーはヴェルレーヌとの恋愛の中から、この見る人としての認識方法を学んだ。そうに違いないと私は思っている。
 愛の行為に精神を盲目化されてしまうのが、多くの人間の実体であるとするなら、少年ランボーは、視覚の人間に化することによって、認識者になったのである。この視覚の人間であることの自覚こそが、私自身におけるランボー体験であった。

*見るということの切なさ

 かつてジイドは、『贋金つくりの日記』のなかで、去って行く人は後ろ姿しか見えないのだと述べている。
 ジイドによってこう書かれた日から、人類の認識の仕方は変わった。少なくとも、文章による表現者は、以来、去って行く者の顔を正面から見ることが出来なくなった。もし正面からの表情が書かれるようなことがあるとすれば、それは即、嘘の表現であることが読者に見えてしまう時代に、その日からなったのである。
 ピカソの女性の顔の絵などは、このジイドの認識の仕方に対する反逆であると見たら、面白いし、理解しやすいのかも知ねない。そねまで、ごく当たり前のことだと思っていた、去って行く者の表情描写、それが出来なくなった時、ピカソの描く顔のようにならざるをえない。それがジイド以降の我々の認識方法なのだ。
 川嶋さんの「立場」という作品は、私に、私の肉体が存在している今という時間を思わせる。私は、私の肉体というバスに乗せられた乗客なのだ。決して降りることも、戻ることも出来ない肉体〈バス〉に乗って私は私の一生という時間を旅している。
 バス停前の理髪店かとも思える奇妙な窓の内側、そこで行なわれている男女の行為は、髪を剃っているようにも、整体師が施術しているようにも描かれる。見る者はその真実を知りたいと思っても、その意志を無視してバスは発進する。
 そこに表現されている世界は、私が私の肉体に乗って経過して行くこの世との関係に類似する。もっととどまって見ていたいと思っても、肉体はどんどん移動していってしまう。移動といわずに変化といてもいい。少年の時に、あのごとくに感じたあの少年時の内休は、もう私のどこにも存在してはない。少年の私は死んだのである。

「そう考えているうちに、自分がどこへ行って来たのか、どこへ帰っていくのか分からなくなって来た」と作者は作中で書いている。つまり、これが作者の人生認識なのだ。
 生まれてきた赤ん坊にいったい君はどこから来たのかと尋ねても答えはないだろう。赤ん坊でなくてもいい。少年でも、大人の女性でも。そして老人にでも。あなたはどこへ帰っていくのかと、こう尋ねてみても、人は、まるで答えを持ってはいはしないのだ。
 私が、私の与えられた肉体の中で、かくさまよって来た人生の実体というものを、川嶋さんは、バスの窓から見た理髪店とも整体施術院ともとれるものの中で演じられているドラマとの関係で見事に表現してくれたのである。
この作品が表現しているのは、通り過ぎたバスの中から見た、単なる風景であるかのようであって、実はそのまま、あらゆる人間の存在そのものを描写しつくして、深い。
 知人が、いまガンの再手術を受けて、動けないまま入院している。その病室へ見舞いにいった。窓の外では、木々が春から夏へと日々装いを変えている。この風景と知人の肉体存在としてのありようが、いま私の目にいくつにも重なって見えている。


初出:「短説」平成13年(2001)4月号/6月号



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