Ashihara Shuji
芦原修二の短説逍遥
Textual Criticism

『短説逍遥』 (56/57)/芦原修二

星子雄一郎「視線」論

*神力の宿った一行

 一読これは傑作だと思い、支持することを決心した。「決心」とは大げさだが、作品を支持するとは、その作品について、作者同様に責任を負うことなのだ。読者にも決心が必要だ。
「座会要約」で道野重信さんが「人生の文学とはこういうものかと感銘した」とのべているが、私も同感である。関西座会の皆さんがこの月の「天位」にこの作品をいただいたことを、私は慶賀したいと思う。
 関西座会は、このところ毎月のように、傑作を傑作を読ませてくれている。
 私自身は、いろいろん事情があって、このところ欠席しているが、最近の関西座会には、傑作を生み出す熱気が生じているように感じられる。
 というような雑感は無駄言だろう。ここまでで止めて、作品に即し、私の思いを述べたい。
「あのオッサンすげえ、たってるよ」
 この一行の力強さはどうだ。
 こういう敢然とした一行には、散文芸術の根幹を支える精紳力が宿っている。

*欲望その圧倒的なカ

 書き出しは「人が多ければ多いほどいい」という、この主人公の男は、それ故に休日前の地下商店街に出かけていく。何をはじめようとしているのか。
 読者の期待をいっそう盛り上げるように、次は一行の空白をとる。
 そして出て来た主人公は、カツラを被って化粧する。この変装は、どうやら上手ではないらしい。
「なにあれ、あの親父、変態じゃん」と、一目で何もかも見抜かれてしまう。その見抜かれてしまうような、なりきれていないのもまた「人が多ければ多いほどいい」と考えている男の計算の内なのだろう。この男の耳にとどいてくるオーディエンスのセリフがいい。潮笑とか侮蔑とか、そういうものこそが、とりわけ男の興奮を突き上げる条件なのである。それがじつによく表現されている。
 そして、決定的な声が男に聞こえてくる。
「あのオッサンすげえ、たってるよ」
 それが、そうわかることで、男はいっそう興奮するのだろう。このためにだけ男は生きている。人々は笑っているが、彼自身は笑っている世間の人達を潮笑するのだ。そして生きている実感にひたるのである。
 完壁な変装を求める人もある。肉体は男でもすっかり女性としか見えないまでの男性もいる。その完壁な女装より、この男の生きているという実感は何倍も強そうである。
 こういう男性を書いて、こうまで私を納得させた文学作品を私は知らない。私にこの主人公と同じ趣味があるからだというのではない。私の趣味とは全く違う世界である。それでいて、この男の存在感は圧倒的で、消しさりようがない。
 この男は、古典的に分類すれば、裸の王様である。王様の裸であることを男に知らしめたのは、子供たちである。
 この作品では、雑貨屋の店先にいた6〜7歳の女の子だ。
 この結末を、私は必ずしも賛成しなかったが、最終的には、これでいいのだと納得させられた。
 女の子の視線が「怒りを込めた、諭すような目」と書いてしまったところも、賛成しかねていたが、ここも結局最終的には、納得した。
 古典的な骨格を引用したことで、じつは作品として成立し、世間と折り合いがつけられたと見れぬでもないからだ。
 だから「汗が噴出し、全身の力が抜けていく」のは、男が放精したためではないのだろう。ここには、ぎりぎりの線で、世間と折り合いをつけ生きていける男の最後の一線が引かれていると私は読んだのである。
 そして、あの娘はいつまでも私を見続ける。「こみ上げる恐怖から視線を外そうと抵抗する」男。しかし、その男を少女の目は吸い込むように見詰めつづける。
 この終段の意味は、何だろうか。女性的なるものが、圧倒的な力をもって男を包み込んでしまったとはいえないだろうか。この挑戦的な男に刃を向けるのではなくて、包み込んでしまう。
 ここには確かな真理が存在する。


初出:「短説」平成17年(2005)1月号〜2月号



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