Ashihara Shuji
芦原修二の短説逍遥
Textual Criticism

『短説逍遥』 (60/61)/芦原修二

西山正義「」論

*引用と援用の新しい織物

 西山さんがML座会あるいは通信座会で発表した「玉」「笑顔」そしてこの「豚」という一連の作品を私は面白がりながら読んだ。
 そしてこれらの作品の方法を「引用というよりはむしろ援用のパッチワーク」あるいは「キルト風作品」と定義した。そして、それ故に、なまじいな考えで人がまねるとしたら失敗する、というより怪我をしかねない方法だと思い、そのことを今この稿をすでに書き進めながらもなお考えている。
 先日、毎月読後評を書いてくれている土屋進さんと電話で話をした。そのときこの「豚」という作品の内容を告げたら「あ、宮崎駿の紅の豚ね」とたちまちに反応がかえってきた。思っていたものは同じだった。
 そのイメージを巧みに援用して独自な作品世界をつくっている。その構築方法が巧みなので、楽しい作品になっている。提出したものは、ML座会の2月1日送信 [短説02466] として発表された第2稿だ。第1稿にあった前半のやや長い団地の風景描写の部分を改め、第2行目から早くも豚を登場させている。この方向は、正しいと思う。と同時に私は、もう少し巧みな改訂があるかも知れないな、と思いつづけている。
 じっさいこの作品は、その行間になぜか性的にそそるような奇妙な印象があって、それが成功の大きな要素だと思う。それを私は、この作品にはじめて接したときから感じつづけてきた。
「豚」は『西遊記』の八戒がそうであるように好色的だ。私には、この首吊りしている豚がピンクのシロモノをおっ立てているのが見える。作者が「女の匂いが漂う」と書いているのも、それを企図しているからだと思う。
 そして「お兄さんもやってみるかい」豚がそそのかす。

*椿事への侵入者

 首吊りした「豚」と「私」のそばへ、ころげてきたサッカーボールを追って駆け寄ってくる若いお母さんがいる。それを見て「イケテルじゃない」と豚は片目をつむる。豚はすでに気分が乗っているのである。このあたりの軽やかで面白い会話に気をとられ、読者が読み落とすものがある。それは近寄ってきた二人の女性が豚の存在にまったく気づいていないらしいことだ。これは作者が、豚と私の世界に、女たちが入り込めないよう戸を閉しているのだ。そしてこのことこそが、この作品の「本質」だと私は思う。つまり彼女らは、「首吊りした豚」と「私」との間に成立した知的で快楽的な時間への異物、侵入者と位置付けされたのだ。作者はそうとは書かないが、嗅覚鋭い読者なら、犬のように何かを予想し、吠えたい気持を誘発されたはずだ。
 ここで通信座会に出された第1稿を見てみたい。能の構成を参考に説明するとワキ役の「私」が登場して、あたりの風景を叙述する。舞台説明である。それがきわめて長くて、シテが登場するのは、ほとんど後半に近いところで、「木に白っぽいものがぶら下がってい」ると書かれての登場。それまでに16行。これではバランスに欠く。通信座会で私が「天」に選びながら前半不要なのでは……と記したのはこのためだ。しかし、作者自身はその部分を削除しなかった。それを正解だと私も思う。その理由を分析したい。
 場所は、北に戸建て、南にコンクリート何階建てかの住宅団地。その間にちょっとした公園がある。その公園で豚の首吊りという椿事に出くわす。そして豚と私の間に、読者の心をもそそのかさないではおかない関係がはじまる。その空間に若いお母さんや犬をつれた婦人が入ってくる。彼女らは「私と豚」との関係の破壊者になりかねない、つまり邪魔だてしないでもない存在だ。その彼女等は南と北の住宅地からやってくる。だから作者にはこの住宅街のことを書く必要があった。
 私は「人の意見をよく聞くように」と座会などでたびたび主張するらしい。それは「私の意見に従え」と言っているのではない。そうではなく、他者の言葉は、鋭く感じ物事の本質に気づくための「ヒント」になるからだ。
 豚に「お兄さんもやってみるかい」と言われ、どうやら、自分もその気になったそのところへサッカーボールがころげてきて若いお母さんが近寄ってくる。この一種の邪魔者、逆にいえば健康なる市民の闖入、これこそがこの作品の本質的な主題なのだ。
「おいおい、その女には気をつけろ」と読者は言いたくなる。豚と私に対し、住宅地の住人は、健康なる常識人として対立項となる。その一方だけを描くだけでは済ませなかったのだ。と、ここでまで考えてきて、私はもう一つ思い出した事がある。それは、数年前の東京座会に出たある女性会員の言葉だ。
「この世にはもう書かれなかったことなど、何一つ残されていないのよ。だから、できるのは引用か、コラージュだけ」というのだ。
 私は非常に感心した。それでいながら執拗に反駁した。それは無意識的な執拗さというべきもので、この方法論による成功事例を彼女のその後の活動に求めていたのだ。その解答は以来いまだ得られていない。そして私は再びその時の解答をこの作品の作者から欲しがっているらしい。
 このような方法は上田秋成、芥川竜之介、井上ひさしらによってさまざまに試みられている。が、この作品はそれらより遠く原作離れし、そのイメージは西山正義の独自な世界で活躍している。そこを私は評価した。
 その上でなお、このように借用してきたイメージよりも、この作者のオリジナルなものを私が求めているらしいことを、私は隠蔽しつづけることが出来そうにない。


初出:「短説」平成18年(2006)3月号〜4月号



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